「バイオリニストは肩が凝る」(鶴我裕子 NHK交響楽団第1バイオリン奏者 著)←面白すぎる。

◆小学生の頃からオーケストラの音楽家に憧れてきた

 

 「崇拝」に近いです。

 オーケストラの音楽にあまりに感動したため、オーケストラを構成するひとりひとりの音楽家は、

 私にとって、「神様」に等しい存在であった。今でもその思いに大きな変わりはない。

 何故か、ソリストにはあまり興味が無かった。

 とにかく、「オーケストラで演奏する音楽家」が。私にはこの世で最も偉大な存在だった。



 当時、自宅のそばの杉並公会堂という汚い、小さい会場で、東京都交響楽団(都響という)や、

 東フィル(東京フィルハーモニー交響楽団)が、ファミリーコンサートをやってくれた。

 500円で聴けた。土日のマチネー(昼間のコンサート)が多かった。

 杉並公会堂は小さい建物だから、コンサートが終わった後、裏側の道で待っていると、

 オーケストラの楽員さん(=神様 for me)が、ぞろぞろと楽屋から出てきて、帰途につく。

 クルマを停めるスペースが十分に無いし、すぐ近くが中央線の荻窪駅なので、神様たちが歩いて駅に向う。



 私は引っ込み思案の気の弱い子供だったが、どういうわけか、この時ばかりはもの凄い行動力を発揮した。

 小さいスケッチブックと、フェルトペンをあらかじめ用意しておく。

 サインをもらうのである。神様という割にはなれなれしいが、理屈ではない。

 そして楽器を持った楽員さんに片っ端から、サインしてください、とねだった。

 トランペット奏者も、コントラバス奏者も、帰りに八百屋で、大根を買って、

 バイオリンケースと一緒に持っている女性の楽員さんもいた(私はそんなことはどうでもよいが、今にして思うと、あの方はすこし、恥ずかしかっただろう。悪いことをした)。

 ただ、私にとっては、大根を持っていようがいまいが、関係ない。

 クラシックの音楽家は今でもカネが欲しくて出来る商売ではない。当時はもっとギャラが少なかっただろう。

 大抵の音楽家は(今から思うと)粗末な身なりをしていた。

 それも、私には、関係が無かった。オーケストラで演奏しているプロの音楽家から、サインが貰える。

 子供の私の胸は喜びではち切れそうであった。



 ときどき、「ついでに」などと言っては失礼なんだけど、指揮者のサインも貰った。

 ある時はコバケン(小林研一郎という、日本のクラシックのガクタイなら知らない人はいない、指揮者)にサインを貰った。

 恐縮するほど丁寧な方だった(音大では学生に厳しいので有名なのだ)。

 そして、何と、故・渡辺暁男先生にもサインを頂戴した。

 コバケンは芸大の指揮科卒で渡辺暁男先生の弟子。渡辺先生といったら、なにしろ、岩城宏之や、山本直純が芸大で習ったような方なのだ。

 渡辺先生は子供の私を「演奏会を聴きに来てくださったお客様」として扱ってくださった。

「サインですか?字が下手なのですがよろしいですか?」と。



 ああ。今から思うと、無礼、失礼、無恥、厚顔。恥ずかしい。 



 勿論、私も何十年も生きて、人並みに人の世の醜さを散々味わった。

 だから、ゲージュツカとて、立派な人格の持ち主とは限らないこと、それどころか、嫌な奴も多いこと。

 オーケストラの内部でも時に勢力争いとか、新人イジメなど、醜い人間の営みがあることを知っている。 

 しかし、「憧れ」は理屈ではない。

 その頃、サイン帳にした、小さなスケッチブックは、棺桶まで持ってゆくつもりだ。

 私の唯一、かつ、絶対無二の、永遠の宝物だ。


◆「バイオリニストは肩が凝る」(鶴我裕子 NHK交響楽団第1バイオリン奏者 著)

 

 N響の現役第1バイオリン奏者を30年も務めておられる鶴我さんは、そのような神様の見本のような方だ。

 N響のステージで何百回、お姿を拝見したか分からないが、これほどウィットとユーモアと、

 ロマンチシズムに満ちた文章をお書きになる方とは知らなかった。

 今回紹介するのは、バイオリニストは肩が凝る―鶴我裕子のN響日記だ。

 誤解を恐れずに言うと、これは、あたかも私のために書かれた本ではないかと思うほど、隅から隅まで面白い。

 アマチュア・オーケストラで演奏するような方は勿論、楽器が弾けない人が読んでも、オーケストラに少し興味がある人、

 最近、興味が出てきた人、あんまりクラシックって聴いたことが無いんだけど、という人が読んでも、多分、面白い。



 N響の第1バイオリンというのは、日本のオーケストラバイオリンプレーヤーで一番上手い人たちであると考えてください。

 第1バイオリンはオーケストラの心臓部です。

 そこで30年間もの間、現役プレーヤーとして弾いて来られた鶴我さんは、オーケストラの酸いも甘いも、ウラも表も知り尽くした大ベテランだ。



 若い指揮者が初めてN響を振るときなど、これほど怖い人はいないだろう。

 経験の無い指揮者などよりも、実際に音を出す奏者の方が、殆どの曲に関して、よく知っている。

 若手に限らず、初めてN響を振る指揮者が来たときに、オーケストラが思うのは

「頼むから、せめて(演奏の)邪魔をしないでくれよな」ということだそうだ。

 下手にいじらないで欲しい。そうすりゃ、上手く弾いてやるから、ということだ。

 そういう、オーケストラの音楽家の本音が書かれていて、私には、ちょっと危ないほど面白い。

 この本を読んでいる最中に火災が発生しても、焼死するまで気がつかずに読み続けそうな気がする。


◆一部抜粋(ご容赦!)「譜読みを楽しむ方法ってある?」より

 

 「譜読み」

 知らない曲や新作を、リハーサルの前に家でおさらいすることを「譜読み」といい、オーケストラ人生の大部分は、これでつぶれる。

 「練習」というのは、もう知っている曲のホコリを払ったり、みがきをかけていくことなので、「譜読み」ではない。

 バイオリン・パートの譜読みは特に大変で、いつも細かい音符を弾かされっぱなし、

 そのうえ音域が高いので目立つし、大曲になると50~60ページもある。

 それを、始めの音から手探りで弾けるようにしていくのだ。もうイヤンなっちゃう。おもしろくもナーンともないですよ。

 たとえ、通して弾けるようになったって、それは全体の一部分でしかないので、美しくもカッコよくもナーンともない。

 だから、表紙をめくる前からたいていのプレーヤーは「あーあ」とため息をつく。

 最後のページにたどりつくまで、いったいどのくらいかかるやら。

 そのうえ、こんなヘンな曲、もう2度とやらないかもしれないのに、やれやれ・・・。

 仲間に「譜読みを楽しむ方法ってある?」と聞いても、「ないっ」「あるわけねーだろ」と、返事は決まっている。

 そうだよな。どうして無理に楽しもうとするんだろう。例の「ポジティヴ思考」ってやつね。

 あれは二重に自分を疲れさせないだろうか。「笑う介護」とか、「おいしいダイエット」とか。

 友よ(オー・フロインデ)、おもしろくなければ、「おもろなーい」とわめくべし(ニヒト・ディーゼテーネ)。



 で、だいぶ前から、私の譜読みは、以下のスタイルに落ちつきました。

 まず、近所の公園をひと回りして、よその犬などをなでて帰り、おいしいお茶を飲む。

 次に自室のタタミベッドの上にコタツをセットしてスイッチを入れ、上にバイオリン・ケースを置いて楽譜をたてかける。

 むこうのカベにあるテレビをオンにする。テレビは相撲が一番都合がいいけれど、

 アニメ「ルパン三世」や、ワイドショーでも可。音はしぼってコタツに足をつっ込み、うしろのボードにもたれて楽器をアゴにはさむ。

 大声で「あ~あ」と言ってから、最後のページの始めの音から、切りくずしていくのだ。

 フレーズも速さも無視する。とにかく、その音に指がいくようになったら、ひとつ前のページへ。

 途中、相撲が時間いっぱいになったら、弓を持ったまま口をあけて取組を見る。

 そうやって2時間もたつと、アラ不ふしぎ、表紙が見えてくるではないか。

 もちろん、まだ弾けちゃいませんよ。でも、きょうはこれでいいのだ。

 「1日の苦労は1日にて足れり」と、イエス様もおっしゃった。

 目は疲れたけど心は疲れていないし、筋肉もまあまあだ。立派な音をたてていないので、近所迷惑にもならない。

 おまけに相撲の勝敗まで知っている。

 え?楽屋でサインをもらう気がなくなった?そうでしょ。ウラなんて、こんなもんです。美化するのはやめましょう。


◆コメント:ハハハハハ・・・・

 

 これは、読む人の音楽的体験によって随分受け取り方が違うでしょうね。

 真面目な方は、「なんたる怠惰な」と思われるでしょうが、違うんですねえ。

 まず、譜読みと言っても、音楽家は子供の頃からソルフェージュといって、楽譜を読む訓練をしているし、

 絶対音感があるから、譜面を見れば、楽器で音を出さなくても、

 自分のパートが出す音(メロディーのこともあるし、タタタタタ・・・という「刻み」の時もある)は、ほぼ完全に頭の中で鳴らせるのです。

 音を出してみなくてはどんな曲か分からないというような人は素人なら構わないけど、プロには絶対になれません。

 ただ、音は分かっても、その通りの音を自分の楽器で出すためには、バイオリンならどの指でどの弦を押さえるか。

 この音では、右手の弓の速さはどの程度にするか。というような「動作記憶」にしなければならない。

 それが面倒くさいのです。



 これは、しかし、みんないうのです。

 私のような素人が譜読みを面倒だと感じるのは、才能がないから当たり前だけど、散々訓練を積んだプロでも面倒なのね。

 以前、ピアニストの清水和音(しみずかずね)氏が、このひとは4歳でショパンの「幻想即興曲」を弾いたと言うほどの天才なのに、

 やはり、譜読みはいやだなあ、と言っていましたね。

 もう亡くなったけど、20世紀最高のピアニストの一人に、アルトゥール・ルービンシュタインというお爺さんがいました。

 冗談ばかりいうひとですが、これほどの巨匠でも、同じ事を言う。

 「年を取ると言うことは素晴らしい。「譜読み」をしなくていい」。

 それほど、面倒なものなんですね。

 だから鶴我さんも「あーあ」と言ってからじゃないと始められない。


◆50ページの譜読みを2時間・・・ね。

 

 そうは言っても、さすがに鶴我さんは一流のプロであることがわかります。

 上の文章を読むと、要するにバイオリンパート50ページの譜読みを2時間で一通り済ませているわけです。

 素人と比べるのは失礼というものだが、アマチュアなら、一ヶ月はかかるでしょう。

 どうして鶴我さんが2時間で出来るか?

 基礎を固めた上で身につけた高度なテクニックを学生の頃に習得しているからです。

 そのために、子供の頃から毎日何時間もの、累計にしたらもの凄い量の練習をして来たからです。

 鶴我さんは、バイオリン始めたのが何と10歳なんです。

 今じゃ考えられない。3歳か4歳で始めるのが普通。

 しかも鶴我さんのご出身は山形。東京のように有名な大先生がいたわけではない。

 芸大合格までの苦労はもの凄かったと思います。



 音大に入るには、バイオリンだけ弾ければいい、というわけではないのです。

 「聴音」といって、ピアノで弾いた旋律をそのまま楽譜に書き取る。大抵2回しか弾かない。

 聴き取れなかったり、忘れたら、アウト。しかも単旋律ではない。

 バイオリンはどうなんだろ。4声の聴音かも。つまり4つのパートを同時に聴き取ってその場で譜面にする。

 少なくとも作曲科や、指揮科の試験では4声が当たり前。

「ソルフェージュ」。読譜力の試験。楽譜を渡されて、その場で歌う。

 途中で転調していたり、音部記号がト音記号から、ハ音記号とかヘ音記号に変ったり、わざと意地悪に作られている。

 「楽典」。和声進行とか、楽譜を見て調性を書けとか。

 調性なんて簡単そうだが、2つの調性のどちらにも取れそうなのがある。それを、前後から推論して特定せよ、という。

「ピアノ」。音大に入る人は、何の楽器を専攻していても(声楽でも)、ソナチネ(ソナタの簡単な奴)程度は弾けなければいけない。

 バイエルでOKというわけにはいきません。たとえ、打楽器専攻でもね。


◆とにかく面白いです。おすすめCD

 

 きりがないから、この辺にします。

 折角だからおすすめCDですが、鶴我さんはオーケストラプレーヤーだから、ソロレコーディングはしていないです。



 私は昨年10月8日に、ベルリンフィルのコンサートマスター、安永徹さんが如何にすごいかと言う話をかきましたが、

 鶴我さんが同じ事を書いている。

 

「コンマス(コンサートマスター)と言えば、何がすごいって、日本人がベルリン・フィルのコンマスになったぐらいすごいことはない。」


 プロから見てもすごいんですよ。

 その安永さんが奥さんのピアニスト、市野あゆみさんと録音しているCDが何枚もあります。

 デュオ・コンサーって、これ、4週間か。

 品切れじゃないと良いのですが。

 私はバイオリンのソロっていろんな人の聴きましたが、安永さんが一番好きです。

 もの凄い美音。溢れる音楽性。

 冒頭のコレルリのソナタなんて、地味な曲だと思っていたけれど、

 安永さんの手にかかると、生まれ変わったように美しい。これぞ、芸術家の真骨頂。本当に名人。

 誰も、なかなか分かってくれないので悔しいのだけど、安永さんがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを22年も務めているということは、

 間違いなく、日本の誇りなんです。これだけでも、日本人で良かったと思います。

 このCDに収められているのは、間違いなく、超一流の音楽家による、超一流の演奏です。


by j6ngt | 2005-11-27 03:30 | 音楽


<< 「悪者探しは景気悪化招く 耐震... 体調不良の為、本日休みます >>