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無思考」を「プラス思考」と称する欺瞞

◆読者の方からヒントを頂いたことを予めお断りしておきます。

私は、同じ文章をエンピツ、ココログ、エキサイトブログの3カ所に掲載している(エキサイトは最近更新をサボりがちです。済みません)。

本稿は、その3つのうちのいずれかの読者の方からヒントを頂いたものであることを予めお断りしておく。

ブログの本来のあり方からすれば、ここでその方の文章にリンクを貼るべきところであるが、

ブログには、変なエロサイトからスパムTBを送ってくる者がしばしばいるので、その読者(仮にAさんと呼ばせていただく。)に、つまらぬTBが流れてゆく恐れがある。

そういうご迷惑をおかけしたくないので、何処のどなたかは伏せさせていただく。非礼をお許し頂きたい


◆Aさんの主張。

Aさんのお仕事は、マスコミ関係若しくはそれに近いという事だが、私とご本人とは勿論全く面識が無い。

先日、上記3カ所のうちのどれかにコメントを頂いたので、Aさんのブログを読ませていただき、非常に共感を覚えたエントリーがあった。

それは、

「何でも、プラス思考をしていれば、世の中上手くいく(或いは世の中で上手く生きてゆける)という考え方が間違っている」


ということである。

Aさんはマスコミ関係の仕事をしておられるわけだから、当然、世の中の「問題点」を取り上げることが多い。

必然的に、今の日本が確実に悪い方へ向っていることを感じるという。



ところが世の人々は、とりあえず、毎日のメシには困らないし、特に都会に住んでいれば、なんだかんだと楽しいことがある。

しかし、楽しいことばかり考えていれば「何とかなるさ」というのは「ポジティブシンキング」(positive thinking)の勘違いではないか。

現存する世の中の問題がこのまま発展したら、如何なる深刻な事態に発展するかという「マイナス思考」も、必要だ。

以上が、私の主観に基づいて要約したAさんの思想である。


◆全く同感である。

私もそれを考えていた。後付けではない。

3月11日の記事(官公庁の情報流出に関する文章)で私は、
「リスク・コントロールは「マイナス思考」で無ければだめだ。」


と書いた。「リスクコントロール」は日本語で「危機管理」と云う。

危機管理はマイナス思考が出来ない人間には務まらない。



考え得る最悪の状況を想定し、それでも対処できるような体制を構築するのが、「官」でも「民」でも、危機管理責任者の仕事である。

リスク・マネージャーが脳天気な楽天主義者で「あれも大丈夫だろう。こんなことも滅多に起きないから、そこまで考えなくていいよ」という人物だったら、危なくて仕方がない。

私はそのようなに考えていたので、Aさんのご意見には非常に共感を覚えた。

そして、もう少し考えているうちにあることに気づいた。


◆「深刻な問題」「考えたくない現実」から目を背けることを「プラス思考」と云っているのではないか?

世の中には本当に、困難にぶつかっても、それを良い方向に解釈することが出来る人がいる。

話が大げさになるが、松下電器産業の創始者、故・松下幸之助氏へのインタビューなどを読むと、松下氏は本当に正真正銘のプラス思考だったことが分かる。

それは、脳天気なプラス思考ではなく、世の中の凡人ならば「辛い」とかんじることでも、氏はなにかしら、そこから「収穫」を得るのである。

詳しく書くと長くなるので省く。松下幸之助氏に関する逸話などいくらでも本がある。ネットでも調べられるから、一度、ご覧になることをお薦めする。

とにかく、松下氏は、「プラス思考の天才」である。



しかし、昨今の世間の「プラス思考」は質が異なる。

面倒くさいこと。気が滅入ること。放っておけば世の中が大変なことになるという事実から目を逸らしているだけだ。

厳しい云い方をすれば「現実からの逃避」である。

子供じゃないのだから、気が滅入るような問題にも敢えて目を向けるべきなに、「無思考」を「プラス思考」と勘違いしている。

「地球温暖化?大したこと無いだろ?」

「小泉首相がブッシュの傀儡政権だろうがなかろうが、毎日の暮しが楽しければ、それでいい。難しいことを考えても仕方がない」

「年金?まあ、何とかなるだろ?」

「国債発行残高が何百兆円とかいってるけどさ。別に俺たち関係ないじゃん?」

これでは、バカである。

今一度繰り返す。

「プラス思考」と「面倒くさい問題を考えないこと」を混同してはいけない。


by j6ngt | 2006-04-26 03:40 | クラシック

「長き世のとをの眠りのみな目覚め波乗り船の音のよきかな」1月2日の夜に見る夢を初夢と云う

◆季節の行事の消失は仕方ないけど無風流ですなあ。

 

 昔は日本の各家庭で、私などはずっと東京だが、それでも季節の行事があったものである。

 初夢を語るのに、いきなり話が飛ぶが、夏はお盆(盂蘭盆=うらぼん)の入りには、お迎え火、終わりにはお送り火を焚いた。

 その季節には「おがら」という麻の皮を剥いだ茎の部分を乾かしたものを、花屋さんで、売っていた。

 これに火を付けて煙りを出すのである。

 「おがら」は中が空洞になっていて、燃やすと良く煙が出る。



 ご先祖様はこれに乗って、あの世から夏休みに遊びに来るのだと子供の頃、祖母から教わり、

 なるほどそういうものか、と、私は他愛なく信じていた。

 お迎え日もお送り火も、残り火を消すときには、バケツの水をかける、などという乱暴なことをせずに、

 私の家にはヤマブキ(という植物)が生えていたから、その枝を小さく折り、

 葉っぱ毎水の入ったコップに浸し、その枝に付いた水滴をパラパラとおがらの燃えかすに振りかけて、丹念に消すのであった。



 床の間には明かり(提灯ですね)を飾り、仏壇にはご先祖様のために御馳走を供えるのである。

 お盆の最終日には、お送り火をお迎え日と同じように焚き、皆で手を合わせ、

 「また来年もいらしてください」と祈るのであった。

 子供心に、死後何年も経っている故人をこのように丁寧に供養するとは、何という美しい習慣であろうか、と思った。

 損得勘定でできることではないのだ。死んだ人を供養しても一文の得にもならない、

 という発想しかできない人は、悪いが、育ちが悪い人だ。

 残念ながら、これは、東京の人口がもっと少なくて、

 家と云えば戸建ての一軒家を指すのが当たり前だった時代だったからこそ可能であり、

 今の東京は庭のある家でもみだりに「たき火」ができないらしい。

 事前に消防署に届けなければならない。なんという無風流。

 今の東京の子供は、たき火で焼いた焼き芋の味を知らないのだ。


◆年始廻り

 

 初夢の話をするのにお盆の話が長くなってしまった。

 尤も昔は、めでたいことが重なると、「盆と正月が一遍に来たようだ」という慣用句で喜びを表したように、

 お盆は年中行事の中でも正月に次ぐ「ビッグイベント」だったのだ。



 正月の話だった。

 正月の行事と言っても、地方により、また各家庭により千差万別であろう。

 私が苦手だったのは、元旦に親父が羽織袴に着替え、近所に一軒一軒、年始の挨拶をして回る時に、

 「お供」をさせられることで、これは、小学校中学年ぐらいまで続いた。

 どうして、我が家が挨拶に出向くのかというと、近辺では大正14年生まれの父が一番「目下」だったからである。

 挨拶は、目下が目上にするものである。

 私は引っ込み思案の子供で、よそのお宅を訪問したり(年始回りは玄関先だけだが)、

 お客さんが自宅に来たときに、出て行って挨拶をするのが、恥ずかしくてたまらない。

 だから毎年元旦は憂鬱であった。

 しかし、今にして思えば、あのような「きちんとした」行儀、礼節、という習慣の存在を知っていて良かったと思う。

 こういう習慣が廃れてきたのと人心がギスギスしてきたのは、無関係ではないような気がする。

 昔は一見無駄なことをすることにより、気持ちに余裕ができていたのだろう。


◆初夢

 

 さて、漸く初夢である。

 何日に見る夢を初夢というか、調べてみたら、次のような説明であった。

 

「はつゆめ【初夢】
新年に初めて見る夢。夢占(ゆめうら)としてその年の吉凶を占う。当初は除夜の夢であったが,除夜には寝ない習慣のせいか江戸中期から元日の夜の夢となり,他の事始めが2日なので2日夜の夢となった。室町時代から宝船を枕の下に敷いて寝ると吉夢を見るという風習が広まった。吉夢を順に並べて〈一富士・二鷹・三茄子(なすび)〉などという。」


 今でも元旦の夜を初夢としている人がいるようだが、まあ、これは各家庭の習慣と云うことで良かろう。

 私が生まれ育った家では、1月2日の夜を初夢としていた。

 引用した説明にあるように、宝船を枕の下に敷くのが、本来の姿だが、

 現代では簡略的に、折り紙で宝船を折り、その上に、

「長き世のとをの眠りのみな目覚め波乗り船の音のよきかな」(ながきよのとおのねむりのみなめさめなみのりぶねのおとのよきかな)

 という、見事に回文になった和歌を書く。本当は七福神の絵が描いてあると更に良いこれを枕の下に敷いて寝る。

 これで、縁起の良い初夢が見られる。

 こういうときに、「科学的根拠は?」などと云うものではない。

 無風流だ。

 信じれば、良いのである。


by j6ngt | 2006-01-02 19:26 | クラシック

「プロジェクト X」は、やはり、良い。

◆NHKで「プロジェクトX」特集を放送していましたね。

 

 「プロジョクトX」が終了するにあたって、「視聴者が選んだプロジェクトX」を放送している(12月28日(水)21時40分現在)。

 昨今、NHKに対する風当たりが強く、受信料の支払いを拒否する人は「プロジェクトX」を見たことがあるのだろうか?

 他にも優れた番組はあるかも知れないが、少なくとも誰もが見られる時間帯に放送された番組で、

 これは、極めて少ない「見るべき」番組だった。

 仕事をしている人間なら、「青函トンネル」、「VHS」、「スバル360」、「富士山レーダー」、

「生体肝移植」、「南極観測隊」(あくまで、たまたま今、私の頭に浮かんだテーマを書いただけで、それ以外の「作品」が劣るという意味では決して、無い。)

 を見て、感動しない方がおかしい。


◆かなり、忠実に丹念に取材している。

 

 この番組を作った中核は30代のNHKスタッフだというから感心する。

 しかも、ヤラセは入っていない。

 「生体肝移植」に関しては、親戚があのチームにいたので、実際の様子を聴いていたし、親戚の者も、

 「番組の内容で事実に反することは一つもない(もちろん、番組で取り上げていない、細かい話は沢山あるが、

 それは、番組を一定時間内に収めなければならないのだから、やむを得ないだろう)」、と云っていた。


◆泣けますよね。

 

 あの番組を見て、泣いたことがあるか否かで、その人間の感受性がある程度推察できる、と私は「独断的」に、思っている。

 感受性は、さておき、 毎回感心するのは、登場する市井の一般人が皆、持っていた「仕事への責任感、使命感」、である。

 スバル360を作った人々は、途中、強度に問題があることがわかり、はじめから設計をやり直した。

 青函トンネル工事中に岩盤が崩れ大量の海水が流入したとき、責任者は、逃げようとしなかった。

 日本で初めての生体肝移植を行った島根医大の永末医師は、もしも、手術が失敗したら、

 大学を追われるどころか、医師を辞めなければならないことまで、覚悟した。




 いけしゃあしゃあと、人命に危険を及ぼす可能性がある、欠陥建築物を設計したり、

 売ったりしている今の一部の人間が 同じ「日本人」と思いたくない。


◆リヒテルが愛した日本製のピアノ

 

 ヤマハのピアノ職人は、「18世紀のモーツァルト、19世紀のショパン、20世紀のリヒテル」と呼ばれるほどの20世紀最高のピアニスト、

 スビャトスラフ・リヒテルが、世界の名器スタインウェイよりも気に入るピアノを創りあげた。

 「あの世界のリヒテルが日本人がつくったピアノを愛用している」という話は瞬く間に世界に広まった。



 リヒテルは飛行機嫌いで、日本に来ることは無い、と云われていた。

 しかし、すっかりヤマハのピアノを気に入ったリヒテルは、1970年、万国博覧会の際に初来日した。

 なんとシベリア鉄道でナホトカまで来て、船で大阪に着いたのだった。



 日本を気に入ったリヒテルは、1979年、3度目の来日の際に、「私のピアノを作ってくれているヤマハの人たちへのお礼に、工場で演奏をプレゼントしたい」と云った。

 びっくりしたヤマハ(浜松)の人々は大いぞぎで工場内のピアノ試聴室に、ピアノを整えた。観客は作業服姿のピアノ技術者ばかりである。しかし、リヒテルは云った。

 

「私はこれほど緊張して演奏した記憶がありません。何故なら、ここにいるのは本当にピアノを愛している人たちばかりだからです」

 コンサートは2時間も続いた。ピアノ職人達は、自分たちのピアノに命が吹き込まれた、と涙を流した。


◆株でいくら儲けても・・・・。

 

 今日も、日経平均株価は年初来最高値を更新した。明らかにバブルである。

 全国消費者物価指数が前年同月比+0.1%だったからといって、デフレ終了、景気回復というのは、早計である。



 今年は、「ヒルズ族」にマスコミが群がった。

 目立つ存在にブンヤ(新聞屋=新聞記者)やテレビ屋が群がるのは今に始まったことではない。

 しかし、彼らはもてはやされるに値する存在ではない。

 村上ファンドに代表される、ファンド(マネージャー)が自らは何も作りださない。サービスも提供しない。

 つまり、何一つ他人様の役に立つことをしているわけではなく、他の会社の株を買って、値上りしたら売って差益をあげているだけである。

 最近では、素人までが、仕事を辞めて自宅でデイトレーディング(1日の中で何度も売買を繰り返し、細かく収益を積み上げていく投機方法)をするらしい。

 それで大儲けしたお嬢ちゃんが「先生」と呼ばれ、講演会を開くと、欲に目が眩んだ連中が殺到する。



 勿論、資本主義経済であるから、株式を買ってくれる人がいなければ、株式会社が成り立たない。

 自己資本が集まらない。その意味では株式投資は「悪いこと」ではない。

 だが「投資」とは、長いスパン(期間)で行うもので、本業をほったらかしてチョコマカ売買することではない。


◆もしも、世の中皆が株に熱中したら、国は潰れる。

 

 しかし、世の中全員が、「真面目に働くのはアホくさい」といって働くのを辞め、自宅にこもって株の売買に熱中したら、大変なことになる。

 食べ物を作る人。或いは海外から輸入する人がいなくなる。売る人も株に熱中するのでいなくなる。とたんに国民は飢えてしまう。

 電気・水道・ガスがとまる。社員が全員株に熱中して仕事をしないからだ。

 投資どころか、凍死する人が続出するだろう。

 電車もバスもタクシーも姿を消す。

 医者も看護士も株の売買に熱中し、いなくなる。病気の人を手当てする人間がいない。

 大怪我をしたら最後、じっと死ぬのを待つだけだ。


◆虚構の世界に夢中になってはならぬ。

 

 このように考えると、何もモノ・サービスを作り出さないで収益だけ上げている連中は、

 世の中の大多数の人が真面目に汗水流して働いているからこそ存在できる、狡い存在であることが分かる。時代の寵児でも何でもない。

 日本人は、たった十数年前、土地への投機を繰り返していた不動産屋達、一般企業、そして彼らにカネを貸した銀行が、

 地価の暴落=バブルの崩壊とともにどういうことになったか、もう忘れてしまったのか。


◆「プロジェクトX」の日本人を思い出せ。

 

 何と言っても勤勉に働き、良質のモノやサービスを作り出す人々が日本を支えてきた。

 今も支えられている。

 これからも支えられてゆく。

 株でいくら金持ちになっても、「リヒテルが愛したピアノ」を創りあげた人々のように、

 世界の称讃を浴びることは、絶対にないだろう。


by j6ngt | 2005-12-28 19:05 | クラシック

プロのプロたる所以。

◆ショパンコンクール出場者の練習風景

 

 今年は、ショパンコンクールで、日本人が上位に入賞して誠に喜ばしい。

 ずっと以前、日本人ばかりではなく、各国出場者の、予備選考から本選までの様子を記録したドキュメンタリーをNHKが放送したことがあった。

 本選まで残った出場者が、実際に本選が行われるコンサートホールのステージで練習する時間を与えられていた。

 ここまで来たら、通し(全曲始めから終わりまで弾くこと)かな、と思ったのが、さすが素人の私の浅はかさであった。

 そのピアニストは、まず、右手だけで弾き、次に左手だけをさらった。



 ピアノの初心者は必ずそのような練習をするように先生が指導する。

 但し、これは、まだ片手ずつでも満足に弾けないからだ。右、左それぞれが弾けないのに、両手で弾けるということはあり得ない。

 これに対して、ショパンコンクールの出場者は次元が違う。

 彼らは当然、両手で全く違う動きが出来る。信じられないほど難しいことが出来る。

 ショパンコンクールに出なくても弾ける人は沢山いるけれども、ショパンのよく知られた名曲に「幻想即興曲」というのがある。

 Fantaisie-impromptu(ファンタジア・アンプロンプチュ。カタカナで覚えておくと、知ったかぶりが出来て具合が良い)。

 この曲は、手元に楽譜が無いまま書くので不正確かも知れぬが、左手が6連符を1小節で2回弾くあいだに、右手は15個の16分音符を弾く。左手が12、右手が15。

 人間は随分難しいことが出来るものだと思うが、一度習得してしまうと、左手も右手も殆ど自動的に動いてしまうのだ。また、それぐらいになるまで練習しなければいけないのだが、それに慣れすぎると、 一つ一つの音を意識しなくなる。すると、片手ずつ弾けと言われた場合、特に、左手が弾けないことがある。これでは、本当に弾いているとは言えない。

 だから、ショパンコンクールに出るような名人ですら、基本に戻って練習するのだけれども、私はこの番組で、ショパンコンクール本選出場者ともあろう人々がこの地道な練習をしているのを知り、驚き、 感動した。


◆第一線の同時通訳者が毎日読んでいるのは、Daily Yomiuriだった。

 

 英語が好きな人は意外と多いが、こういう人々は、少し上達すると、TimeとNewsweekとどちらが良いか(私はどちらもつまらない)、はたまた、英国のThe Economistか、 などという話題を持ち出して、得意そうな顔をするものだ。

 ところが、私はあるとき、現在、国際会議や、NHKのニュースなど、第一線で活躍する超一流の同時通訳者が、「私はいつもDaily Yomiuri(読売新聞の英語版)が最も役に立つと思っている」と書いておられて、驚いた。

 日本で起きている、最も新しい出来事、新しく話題になった言葉を英語でどのように表現するかを知るためには、日本で発行されている英字新聞が一番だし、Timeみたいなややこしい言い回しより、Daily  Yomiuriの簡潔な表現の方が参考になると言う。

 また、この通訳者は英英辞典を使うことはなく、使う辞書は殆ど英和と和英だという。

 英英辞典をすすめる人は多い。知らない単語を英語の説明で理解すると、如何にも語学力が付いた気分になる。

 しかし、それでは日本語ではどういう意味だと訊かれて答えられないようでは通訳にならないのである。


◆司馬遼太郎さんは、未知の分野について書くときは、まず、子供用の入門書を読んだ。

 

 これは、エッセイ集「風塵抄」に載っているのでご存じの方もあろう。

 「菜の花の沖」(高田屋嘉兵衛の物語)を書くとき、船舶・航海術などの知識が必要だったが、司馬さんは全然知らなかった。

 そういうとき、司馬さんは、子供向けに書かれた入門書を、まず読むのだそうだ。

 司馬さんによれば、子供向けの本はその時の一流の学者が書いていることが多く、そういう人は本当に分かっているから、難しいことが実に平易かつ明快に書かれているので、とても勉強になると言う。


◆一流のプロに共通すること

 

 以上の例から分かるように、それぞれの仕事は違うが、一流のプロというのは、常人が驚くぐらい、基礎を大事にするのである。

 これらの人々が到達した境地にはとても及ばないが、方法自体は真似できる。実際便利だ。

 ピアノはともかく、 例えばネットで何か調べたいときは、Yahoo!キッズがいい。

 文化系の私には特に科学的な情報が平易に書かれているのが大変有難い。


 
by j6ngt | 2005-12-20 04:05 | クラシック

体調不良の為、本日休みます

◆メール、コメント、ありがとうございます。

 

 ここ数日、「『イトカワ』に着陸する『はやぶさ』」の他、「ボレロ」に関して、

また昨日の稿について、リンク、ご感想のメール、コメント等、誠に有難うございます。

 未だに返信出来ず、申し訳ございません。少々、体調が悪く本日は無理ですが、

 近日中に必ず、レスをお送りいたします。

 今暫くご猶予を頂きたく、お願い申し上げます。


by j6ngt | 2005-11-25 00:19 | クラシック

日本人は、ネット上のみならず、現実世界で、もう少し声をかけた方がよいのではないか。

◆バーチャル・ワールドと現実世界との最大の違い。

 

 私の「感覚」では、2年ぐらい前からちらほらと「ブログ」という言葉が日本語に定着して、その頃から、もの凄い数の日本人がブログを開設している。

 ブログにおいては、わざわざ開設するぐらいだから当たり前といってしまえばその通りだが、

 皆さん内容は千差万別だが、誠に雄弁だ。

 私は、日本人は実はこんなに世間の目に触れることを承知で、何かを主張したかったのか、ということに驚いた。

 それは、原則的には悪いことではないと思うのであるが、人間、仮名で(匿名と仮名は違う)、文字だけなら、目の前には誰もいないので、何でも言える。

 しかし、ネットの世界だけではなく、現実世界でも、もう少し日本人は、「お互いに声をかける習慣」を身につけても良いように思う。


◆実例1:電車で隣の人が落とし物をして、下車しているのを知りながら、何もしない若者。

 

 若者だけではないが、日本人は公徳心が足りないように思われる。

 以下、私が電車の中で実際に目撃した事実である。

 私の目の前に大学生と見られる若い男性と女性(互いに知り合いではない)が隣合わせで座っていた。

 男性は、ある駅で下車したのだが、その直前バッグから何かを取り出し、その拍子にハンカチか何かを床に落としたのである。

 それは、目立つ色で、周囲の人は皆、彼が物を落としたことに気がついている。

 隣の女の子も気がついている。

 私はこう言うときには、ごく普通のこととして、「何か落ちましたよ」と電車の中でも知らせる。

 特別に偉いことでも何でもなく、ごく自然なことだと思うのである。

 その時は、私が言うまでもなく、すぐ横の女の子が教えてやるだろうと思った。

 ところが、である。なんと。女の子は何も言わないのだ。

 落としたハンカチは女の子の真っ正面に落ちている。書き忘れたが、男性は特に気持ちの悪い人物、怪しげな人物ではなかった。

 女の子は気がつかないフリをして視線を水平に向けているが、気がついていることは、誰がみても明らかなのだ。

 どうして「落ちましたよ」とか、「これ、落としましたよ」ぐらいの一言が出ないのか?

 そうしている間に電車は駅に停車し、ドアが開き、男子学生は落とし物をしたことを気がつかずに降りてゆく。

 私は、あわてて、落とし物を拾って彼に渡した。

 周囲の日本人は、その一部始終を見ているのに、気まずいのだろうか?

 その一部始終すら気がつかなかったようなフリをして、雑誌など読んでいた。


◆実例2:電車が終点についたのに眠っている人は、起こしてやっても良いだろう。

 

 これに関しては、やらない言い訳を色々と考えることは出来るかも知れぬ。

 「眠っている男が実は凶暴で、起こしてやったのに、いきなり怒り出して、殴られるかも知れない」とかね。

 しかし、少なくとも、私はそういう経験をしたことが無い。



 この季節、東京はかなり寒く、電車内の暖房が使われ始めた。

 どなたもご存じのとおり、電車のあの、ほどよい揺れは、人間に眠気を催させる。

 その上、本人が仕事や学校帰りで疲れていて、電車の中が暖かいと、かなりの人が「熟睡」してしまう。

 終点に到着して車内放送があったぐらいでは、目が覚めない。 放っておけば、電車は数分以内に、逆に発進する。

 実は、私がこれを何度もやっているのだ。

 私は、帰宅するときには、会社のそばのXという駅から乗って、終点のY駅で降りるのだが、ときどき殆ど「昏倒」していて目が覚めない。

 その結果、逆に発進しても目が覚めず、なんと、XとYの中間ぐらいのところまで、逆戻りして、漸く目が覚める、というケースである。



 帰途であるから、別に帰宅時間が少々遅くなったところで、問題はない。

 無いけれども、私は、終点で目が覚めないでいる人というのは、大抵見れば明らかなのだから、

 誰か起こしてくれても良かったのではないか、不親切だな、と思った。

 それ以来、私は、終点で明らかに目が覚めず、放っておけばどこまで逆戻りするか分からないと思われる人を見かけるた場合、

 軽く揺すって、「着きましたよ」と声をかけることにした。

 大抵、というか、ほぼ100%、感謝される。

 誤解されると困るのだが、私は、感謝されるためにやるわけではない。それぐらいしてもいいじゃないか、と言いたいのだ。

 そもそも、感謝する前に大部分の人は数秒間寝ぼけているので、こちらはその間にまた眠りそうにないことを見届けて、消える。

 本人が確実に起きるまで、相手の目の前に立って待っているのは、何だか変だ。


◆こういうところは、イギリス人の方がスマートだ。

 

 以上述べたようなことを強く意識するようになったのは、英国に駐在してからである。

 あちらに住んでおられる方、住んだことがある方はよくご存じだと思うが、

 欧米人は見知らぬ者同士でも、気軽に"Thank you." と例を言い、言われた方も"No prob(lem)" "OK"と返事をする。

 例えばビルの入り口。向こうは自動ドアが意外にすくない。開けて、手を離したら元に戻る、旧式のドアが多い。

 この場合、ドアを押し開けて、手を離す前に、ちょっと後ろを見る。

 後ろから人が来ている場合は、どうせ数秒だから、ドアを開けたまま待っているのが、マナーだ。

 日本人は後ろなんか見ないで手をはなすから、すぐ後ろに人がいると、目の前でバタっとドアが閉まる。

 そういうことに敏感な人にとっては、ちょっと不愉快なものである。

 ロンドンでは、ほんの数秒ドアを開けて後続の人を待っていてあげる。後から来た人は必ず、謝意を表する。

 待っていてあげた方も、"All right"とか、"No prob"(probはproblemの略だ)と返事をする。これが完全に「社会的慣習」として定着している。

 たったこれだけのことで、世の中全体が少しばかりホンワリと柔らかいムードになるのである。

 丸の内あたりのサラリーマンが歩いているのを見ていると、すごい無愛想な顔で、今のような話をしても、多分、

 「ドアを開けて待っているなんて、そんな暇があるか、こちとら忙しいんだ。」と言いそうだ。

 しかしねえ。こう言っては失礼だが、貴方が数秒、数十秒、数分遅れたところで、世の中、何にも影響を受けないんだよ。

 ほんの少しだけ、勇気(大げさだが)を出して声をかけたり、ドアを支えて待ってみませんか?

 これによって、不愉快な気分になるということは、まずあり得ない。試して見ると分かります。


by j6ngt | 2005-11-24 01:04 | クラシック

「世界ウルルン滞在記」において認められる、「性善説」

◆「世界ウルルン滞在記」では、「普通の人々の善意」を見ることが出来る。だから、好きだ。

 この番組は、人間の「善意」を確認出来る、という意味で少なくとも私には貴重である。

  今週の「世界ウルルン滞在記」ではMEGUMIが、韓国済州島で海女さんの修行をしていた。

  最後は、ホームステイ(?)先の一家や、近所の海女のおばさん達がみんな集まって涙を流して別れを惜しんで泣いていた。


◆先々週の中国の人々も親切だった。

 

 先々週は中国・洛陽(北京の北西約400kmの街)に伝わる、「水席」(前菜以外は全てスープのフルコースという珍しい料理)の修行に、日本人の若いタレントの娘が挑戦した。

 別れ際は、今日と同じように、涙、涙であった。



 韓国の済州島も、中国の洛陽も、大都市から遠く離れているために、政治的な影響が弱いということは確かにあるだろう。

 また、番組を製作するに当たって、タレントがホームステイする先には、それなりの謝礼を渡していることも間違いない。

 だが、それだけでは、あの純粋な、好意に満ちた感情の発露を見ることは出来ないと思うのである。



 要するに、何を言いたいかというと、一部のマスコミがしばしば大げさに、「全ての中国人、韓国人は、日本人と見れば、憎悪をむき出しにする」(実際はそこまで書かないが、あたかもそうであるかのような印象を受ける)ように報道するのは、ミスリーディング(誤解を生じる)ではないか、ということである。

 実際に、生身の人間と人間とが顔を合わせ、たとえ言葉が通じなくとも、親切な心情が伝われば、国家間の過去の対立的歴史がどうであっても、関係ない、と私は考えている。


◆中国共産党が、人民に反日教育をしなければならないのは、放っておいたら、「反日」にならないからだ。

 

 中国は反日教育を行っているという。

 これをけしからんと考えるのは尤もだが、別の見方をすることも出来る。

 中国人が、もしも、放っておいても自然に日本人を憎悪する遺伝子を持っているなら、反日「教育」を施す必要は無いはずだ。

 中国人の自然な本性には、日本人への憎悪、偏見がないからこそ、強制的に日本人を憎むようにし向けて、中国共産党への不満を逸らすように画策しているのだ。

 中国の紀元前4世紀頃(戦国時代)思想家、孟子が唱えたように、やはり、人間の本性は善であると信じたい。


by j6ngt | 2005-07-31 23:39 | クラシック

タバコ以外の発ガン物質については、何故誰も騒がないのか?

◆タバコであれほど騒いだ人々は、受動喫煙がガンを発生させるメカニズムを説明できるのだろうか?

 

 近年、受動喫煙による健康への害を理由に社会的に喫煙を禁止しようとする動きが起きている。

 タバコに関する論争は、多分に感情的である。 要するに、煙かったり、くさかったりするのが嫌なのだろう。

 ありていにいえば、タバコの煙のにおいが嫌いなだけなのに、「科学」を持ち出すところが狡い。

 そもそも、タバコの煙がガン細胞を発生させるメカニズムは、いつ、誰が、発見したのだろうか?(ヒントをさしあげるが、そもそも解明されたの?)

 「科学」を論拠にする人々は当然答えられなければならない。いつ、誰が証明し、その論文は何という学術雑誌の何年何月号に掲載されているのか?

 「科学的に証明されている」という人は、これに答えられなければならない。 しかし、それが出来る人は、嫌煙論者の1000人に1人もいないだろう。



 彼ら、彼女らは、自分で本当に理解している訳ではなく、雑誌や本でちらっと読んだ知識を、さも自分が証明した科学的事実であるかのように用いているに過ぎないからだ。

 「いろんな、週刊誌などで、タバコの発ガン性とかいう見出しを見かけるから、きっとそうなのだろう」と言うレベルだろう。いい加減なものである。


◆嫌煙論者の身勝手を主張するために、非喫煙者になった。

 

 私はタバコを止めた。喫煙しながら喫煙を擁護しても、説得力に欠けると思ったからだ。

 今や私は非喫煙者であるが、やはり、嫌煙論者の主張は「科学」の大義名分を借りた感情論であり、喫煙者の人格にまで言及するのは明らかに言い過ぎだと考える。

 純粋に、「科学的に」発ガン性物質が人体に与える影響を問題にするのであれば、何故世の中の他の発ガン性物質に対する抗議運動が、社会的にもりあがらないのだろうか?


◆あっという間に有名になったアスベストは序の口。

 

 地球上には800万種類もの化学物質があるが、その中で、今までの所、発ガン性が認められたのは40種類しかない。

 アスベストはその中の一つに過ぎない。



 受動喫煙の害にあれほど口角泡を飛ばした人々は、 何故「タバコ以外」の発ガン性物質に関しては、それを製造している企業を攻撃せず、それを禁止しない政府に、抗議しないのだ?

 新聞を読んでいれば、分かるとおり、アスベストの発ガン率はもの凄いが、タバコに関して「伝家の宝刀、『科学』」を持ち出して、ムキになって書いていたBloggerで、「アスベスト、けしからん」という稿を見たことがない。医学生ですら、だ。いい加減じゃないか。

 不徹底だ。「受動喫煙による害」、などと云いながら、所詮、大多数の人間は、赤の他人の健康など、どうでも良いのだ。

 自分が、タバコのにおいが嫌いだったというだけの話じゃないのか?



 ああそうだ。書き忘れた。

 「科学的に」論ずるならば、タバコと並ぶ嗜好品アルコールに関しては、それこそ、害が明らかになっているではないか。

  例えば、飲まない人より、飲む人の発ガン率が高いことを述べないのは何故だ?

 自分は酒は好きだから?

 それが、「科学的」態度? 

 自分の嗜好と科学的真理を峻別できないのか?

 アルコールが原因で肝機能が低下し、引いては肝硬変になったら、食道静脈瘤が出来て、血を吹き上げて死にますよ、と何故書かぬ?

 毎年、アルコール依存症で入院する人間がどれぐらい多いか。一旦依存になったら一生治らないことを何故、書かぬ?


◆ディーゼルエンジン車を製造禁止にしろ、という「嫌煙家」はいない。

 

 繰り返し嫌味を書くが、受動喫煙による被害などと、一般公衆衛生を懸念するようなことを言っていた非喫煙者達は、猛烈な毒性のある排気ガスを巻き散らかして日本中を走り回っているディーゼルエンジン車の排気ガスについて、何故、問題にしないのだ?

 車の排気ガスは喫煙者が吐き出す煙どころじゃない。桁違いの量だ。

 環境省はディーゼル排気ガスにより、日本全体で1000人に3人が発ガンする可能性があるという試算を行っている。


◆環境ホルモン

 

 環境ホルモンの恐怖はタバコの比ではないと思うが、科学者の皆さんは、何故、これについて、国民に知らせないのだ?

 ゴミを燃やすことによって発生するダイオキシンの毒性は1977年、オランダで明らかになり、それ以来、ダイオキシンの毒性があまりにも強烈なので、欧州では、ゴミ焼却を大幅に減らしてきた。

 日本の(当時の名称でいうと)厚生省の役人はそのような海外の動向を知っていたに違いないが、後の薬害エイズや薬害肝炎と同じことで、責任を誰かが取らなければならなくなるかも知れないのを恐れたのだろう。

ダイオキシン対策は何もしていない。



 ダイオキシンを含む有機塩素化合物(医薬品の原料、ドライクリーニングの洗浄剤、今は使われていないが、スプレーに使われていたフロンガスなど、挙げればキリがない)は、環境ホルモンと呼ばれ、ごく微量でも、人間の生殖機能や免疫機能をかく乱し、子供にまで深刻な影響を与えることがはっきりしている。

 国が、ダイオキシン対策を何ら施さなかったから、日本はゴミの焼却率、焼却施設の数ともに世界一で、大気中のダイオキシン濃度を欧米平均の10倍以上なのである。

 このような事実は、調べればすぐに分かる。それなのに、着目するのがタバコだけというのは、殆ど滑稽である。

 今一度、繰り返す。タバコに害が無いとは言わない。しかし、タバコの害だけを強調するのは、もしも、本気で公衆衛生や、環境を考えるのであれば不徹底である。

 タバコの煙以外には、大気中に発ガン性物質が無いと思っている一般国民、また、国民に正しい情報を与えない日本政府の姿勢が問題だというのだ。


by j6ngt | 2005-07-30 00:14 | クラシック

今日は、アメリカの独立記念日だが、アメリカ建国の歴史的事実に関して記す。

◆「アメリカ独立宣言」を読んでみる。

 

 本日は、アメリカが1776年、英国に対して、「アメリカ独立宣言」を採択した日である。

 故に、「独立記念日」と呼ばれる。

 これが全文の日本語訳である。

 読んでいくうちに腹が立つ。虫酸が走る。白人社会、キリスト教文明の偽善性が見事に凝縮されている。


◆白人は如何にして、アメリカ・インディアンの土地を奪ったか。

 

 アメリカ人は自分達の国を「自由と民主主義」の象徴だと思っているようだが、歴史的事実は正確に知るべきだ。

 1620年、メイフラワー号に乗ってヨーロッパからアメリカ大陸にやってきた白人たちは、ピルグリム・ファーザーズと呼ばれ、アメリカ建国の祖として尊敬されているが、この者たちは、悪魔のように残酷な連中だった。

 周知のとおり、白人がアメリカ大陸にやってくるまでは先住民族の、所謂、アメリカ・インディアンが平和に暮らしていた。

 ピルグリム・ファーザー達は何の罪もないこれら先住民族を虐殺したことを忘れてはならない。

 白人たちは、自分達が勝手に他人の土地におしかけたくせに、アメリカインディアンのことを「悪魔の代理人」と呼んだ。



 1622年、ピルグリム・ファーザーズの1人が、インディアンの一部族、マサチューセッツ族の酋長ら4人を自分の執務室に食事に招待した。

 インディアンは名誉を重んじ、客を丁重にもてなすのが掟であるから、この招待を受けても危険は無いと思ってやってきた。

 ところが、なんということであろう。マサチューセッツ族の4人が執務室に入るなり、アメリカ人は執務室のドアに鍵をかけて、逃げられないようにした。

 そして、この白人は自らナイフを振りかざして、インディアンの一人をズタズタに切り裂いた。

 部下たちは酋長ともう一人のインディアンを剣でめった切りにした。

 18歳の少年は、その場では殺されず、あとで、皆の前に引きずり出して絞首刑に処せられた。

 ピルグリム・ファーザー達はインディアンの酋長の首をもってプリマス砦に引き返し、人々は歓喜して彼を迎えた。

 酋長たち4人の首は棒にさされて30年もプリマスの砦に掲げられ、名物とされた。これが、アメリカの「自由と民主主義」の起源だそうだ。

 アメリカ人は、今でも、対戦者攻撃用ヘリコプターに「アパッチ」などと、アメリカインディアンの名前を平気で使う。

 インディアン達を殺したことを「誇りに思っているから」だそうだ。

 青山繁治氏の世界政府アメリカの「嘘」と「正義」を読まれると良い。


◆独立宣言で「すべての人間は平等につくられている」といいながら、その後100年も奴隷貿易を続けていた国。

 

 「アメリカ独立宣言」というと聞こえが良い。そして、最も有名な部分は、次の一節である。

  

我らは以下の諸事実を自明なものと見なす.すべての人間は平等につくられている.創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている.これらの権利を確実なものとするために,人は政府という機関をもつ.


 誠に、ご立派。ごもっとも。しかし、良くもいけしゃあしゃあと、こういうことを言えたね?アメさんよ。

 まったく、開いた口がふさがらない、とはこのことだ。

 どうしてかといえば、アメリカ人はこの後もずっと奴隷貿易を続けたのである。「全ての人間は平等」と言いながら。

 つまり、「黒人は人間ではない」から、構わないという理屈である。

 それは、おかしい、と至極(しごく)尤もな主張を掲げたリンカーンが大統領になったのは、100年近く後、1860年である。

 しかも、すぐに黒人が解放されたわけではない。正式の奴隷解放宣言が発せられたのは1863年1月である。

 更に、実質的に総ての奴隷が解放されたのは、南北戦争が、南部の敗北と共に終わった、1965年である。



 リンカーンは、立派だと思う。

 ゲディスバーグの演説(人民の、人民による、って奴ですよ)は、偽善的な独立宣言とは訳が違う。

 南北に分かれて戦ってしまったが、互いに憎んではならん、と、説いたわけであるが、立派な思想はいつの世でも理解されづらい。

 リンカーンは1865年4月14日、観劇中、南部(サウス・カロライナをはじめミシシッピ,フロリダ,アラバマ,ジョージア,ルイジアナ,テキサスは、リンカーンが大統領になったら反発し、連邦を脱退したのだ。これらを南部連合という)出身の男に、暗殺された。


◆たかだか三百数十年の歴史しかないのだから、アメリカ人は祖先の蛮行をよく知りなさい。

 

 日本では、例えば大学受験で日本史を選んだら、二千数百年にわたる事柄を学ばなければならない。

 一方、アメリカなんか楽じゃないか。アメリカ大陸に白人が押しかけてきてからはせいぜい300年とちょっとだろう。

 大した分量じゃないのだから、自分たちの祖先が如何にひどいことをしてきたか。ちゃんと勉強していただきたい。

 そして、恥を知れ、といいたい。

 昔も今も、人殺しが好きな奴らだ。


by j6ngt | 2005-07-04 22:27 | クラシック

国語力の低下(続き)

◆様々な情報を頂きました。

 

 昨日、私は、中学生並の語彙力しかない大学生が、語彙・表現力を身につけるにはどうしたらよいのか?ということを書いた。

 そして、具体的な方法として、シソーラス(類語辞典)を用いること、を第一番目に上げ、「書物ではあまり類語辞典はない」と書いたところ、教えてくださる方がいて、Amazonで調べたら、確かに結構、色々とありますね。失礼しました。


という具合である。


◆しかし、本当の問題は、語彙が乏しいという自覚を持つかどうかだ。

 

 語彙を増やすためには、まず、語彙の乏しい人間が、「自分の語彙は乏しい」ということを認識した上で、さらに「それは、恥ずかしいことであり、語彙を増やそう」という意思を確立することが前提となる。

 しかし、大学生にもなって、「鶴の一声」という言葉を知らないという学生は、そもそも、「言葉」「言語」に対する関心が著しく低い人々だと考えられる。

 こういう人が、果たして、「語彙増やす方法」を知ったところで、それを実行に移す可能性はあるのか、と考えると、余り期待できそうにない。

 これは、困った結論で、それでは、どうしようもない。


◆こうなったら、強制するしかない。

 

 こうなったら、語彙が少ないと、社会に出られない、という仕組みを構築するしかない。

 本来、大学入試で国語の試験の点数の比重を大きくすることを期待したいが、無名私立大学は、とにかく経営を考え、バカでもよいから、学費を払ってくれる学生をある程度確保しなければならないので、易しい問題を出してしまうだろう。

 企業も同様である。

 所謂一流企業に入るような学生は、既にある程度の日本語の運用能力を身につけているだろうから、そちらは放っておいてよいだろう。

 だが、中小企業で、何が何でも人が欲しいという場合には、贅沢は言っておれない、と考え、敬語が使えなくても採用してしまうだろう。

 それなら、民間に任せてはダメだ。


◆一定の国語力に達していないものは、大学を卒業できないと文部科学省が決めたらどうだい?

 

これは、問答無用で、文部科学省が、漢字の読み書き、作文能力、敬語の習得などを全ての大学で毎年、全ての学年で実施する。そして、あまりにもお粗末な国語力しか持たない者は卒業させない。

 優秀な学生はばかばかしいだろうが、公平を期すため、つきあってもらう。

 このようにすれば、国語力をつけるインセンティブが生じる。

 逆の言い方をすれば、あまりにも貧困な日本語運用能力しか持たない者は、就職できないぞ、という状況を創出するのだ。

 「語彙を増やす興味」がなくても「語彙を増やす必要」を強引に作り出すのだ。


◆リンク集を御紹介します。

 

 これは、この日記の読者諸氏のご参考になればという趣旨である。

 一つはテープ起こし等■検索おすすめサイトその1■というのだが、テープ起こしに関係なく使えると思う。夥しい数の辞書・事典類が載っている。



 もう一つは、国語力とは関係がない。 かなりミーハーである。まあ、たまにはいいでしょう。

 テレビドラマデータベース

 これは、何とたった一人の、TV業界人ではない、素人が構築したデータベースである。たかがテレビドラマと仰る無かれ。

 ココまで完璧なサイトを作るのは尋常な労力ではない。聴くところによれば、TV屋さんすら、参考にしているそうだ。脱帽。



 最後に、私事ながら、週末で、かなり疲労が溜まっている。文章に変なところがあったら、ご容赦のほど。半分意識が朦朧としているのです。


by j6ngt | 2005-06-11 10:09 | クラシック