大阪高裁の判決に関して、「傍論で違憲」というのがわかりにくいみたいですね。

◆まえがき:なかなか、本件判決文原文を読めないのです。

 

 この事件は、まだ判決文全体を読むことが出来ないのです。

 憲法が関係すると、判決文の発表が遅れるのでしょうか。

同じ日に知的財産権を専門に扱う知財高裁が、ジャストシステムの一太郎に逆転勝訴判決を出したのですが、これは既に、知財高裁のサイトで判決文を読むことが出来るのです。

 だから、仕方がないので、新聞に掲載された【要旨】を元に書きます。

 本当は、一次資料に当たらないといけないですよね。

 要旨というのは、要約する人の主観が混入するわけです。

 人によって、「何が大事な部分か」とか「ここは、捨象して(はぶいて)良いか」という判断が少しずつ異なるわけでしょう?

 本当は大切な一言が、主観で、或いは、意図的に書かれていない可能性がある。

 裁判の判決文に限らず、人の発言とか、著述に対して所見を述べる際は全部を読まないといけないですね。


◆解説1:9月30日大阪高裁の損害賠償請求事件判決の説明。復習。付随的違憲審査制

 

 まず確認したいのは、これは、「損害賠償請求」の裁判だということです。民事裁判です。

 訴えの目的(難しく言うと「訴訟物」といいます)は「損害賠償請求」です。

 原告は、「違憲」という言葉の方が欲しかったのでしょうが、10月2日に書いたとおり、現行法では、総理大臣の靖国参拝が違憲かどうかを直接的に判断してもらう「憲法訴訟」という制度がないので、このように、民事訴訟などに付随する形で、違憲判断を示す、「付随的違憲審査制」がとられている。

 だから、判決主文に合憲とか違憲とか書きようがないのです。


◆解説2:この判決がでるまでの裁判所の考え方。

 


  1. あるひとが、小泉首相の違法行為(今回は違反した法律が憲法なので違憲行為といいますが、違憲行為は違法行為の一種です)によって損害を受けたので、損害賠償しろ、といいました。

  2. 裁判所は、従って、(1)小泉首相の行為は違法(違憲)かどうかを判断し、(2)それによって損害を与えているか、を判断しなければなりません。両方が認められないと、損害賠償請求を認めることはできません。

  3. 今回は原告は、小泉首相の憲法に違反した行為で損害を受けたといっているのですから、裁判官が、小泉首相の行為が違憲かどうか判断するのは当たり前です。そして、小泉首相の行為(靖国参拝)が違法(違憲)だ、と判断しました。

  4. 次に、この行為が原告が主張するような損害を与えているかどうかを考え、損害は生じていない、と判断しました。

  5. 結果的に、小泉首相の行為は憲法に違反しているけれど、原告に損害は与えていないから、損害賠償請求は認められない。といったのです。


 このように見てみると、論理的に裁判を薦めていく上で、裁判官が小泉首相の行為が憲法に違反しているかどうか考えるのは自然であり、むしろ考えなければ不自然です。

 ところが、損害賠償は認められない。という結論だけを見れば、結果的には3の部分は絶対必要なものではなかったのです。このような思考過程が「傍論」と呼ばれます

 私のブログ、JIROの独断的日記ココログ版に、大阪高裁判決に判決文の傍論制限の必要性を感じるという、トラックバックが寄せられましたので説明したのですが、今までの説明で分かると思いますが、それは、無理です。

 繰り返しますが、傍論かどうかは、結論までの考察過程を全て書き表し、初めてどこが傍論か分かるのですから。


◆解説3:司法が政治に口を出している、というのは、見当違いだと思います。

 

 新聞も世間も、最初に書いたように、人の思考・思想を理解するときは全体を把握するべきで、一部だけを取り出して強調するべきではありません。

 今回は、判決文の中の

本件各参拝の違憲性について 本件各参拝は、宗教団体である靖国神社の備える礼拝施設である靖国神社の本殿において、祭神に対し、拝礼することにより、畏敬(いけい)崇拝の気持ちを表したものであって、客観的に見て極めて宗教的意義の深い行為というべきである。また、本件各参拝は、内閣総理大臣の職務を行うについてなされた公的性格を有するものであり、小泉首相は、3度にわたって参拝したうえ、1年に1度参拝を行う意志を表明するなどし、これを国内外の強い批判にもかかわらず実行し、継続しているように、参拝実施の意図は強固であった。以上は一般人においても容易に知りうるところであった。


 というパラグラフ。それも、特に「国内外の強い批判にもかかわらず実行し、」というところだけを強調して、裁判所が政治的な判決をしている、というような扇情的な報道や意見が見られますが、これは、まるで、おかしい。

裁判所が首相の靖国参拝を憲法に違反すると判断したのは、


  • 職務行為性:小泉首相の靖国参拝は職務行為の一部として為されている。その理由は、公用車を利用し、内閣総理大臣秘書官を伴い、靖国神社では、「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳していること。靖国参拝を公約に掲げており、その実行と認められること、など。

  • 参拝行為自体の違憲性:ただ靖国神社に行くだけでなく、祭神に対して拝礼することにより、畏敬崇拝の気持ちを表しており、客観的に見て宗教的な行為である。

  • 反復性、能動性:小泉首相は3度に亘って靖国神社に参拝した。更に、1年に1度は参拝する意思を表明している。また、首相は、誰かに強制されて靖国神社を参拝しているのではなく、自らの自由意思に基づき実行していることは、国内、国外の反対があるのにもかかわらず、参拝を繰り返していることから、容易に察知できる。


という根拠にもとづいているわけです。

そして、問題となっている「内外の反対」は、3の「能動性」を示す根拠として使われているのです。反対があるのに強行している、といっているのです。

どこの国のどういう意見に配慮するべきだというようなことは全く書かれていない。これを、「裁判所が国際情勢を勘案して政治的な判決をした」というのは「曲解」です。

もしも、裁判所が、「周辺アジア諸国の反日感情を顧みるとき、内閣総理大臣たるもの、安易に靖国神社に参拝するべきではない」(そんなことを書くわけがないけれど)と書いたら、それは政治的だといわれてもしかたがない。

 くどいようですが、政治情勢や、行政府の政治的判断に関する論評に相当する記述はないのです。 だから、本判決において、裁判所が政治に介入しているというのは全然見当違いです。


◆結論

 

 判決文における傍論は、判決にいたる考察過程で自然に生じるもので、判決の結論まで至って、初めてどの部分が傍論か決まるのであるから、傍論を禁止するのは論理的に不可能。

 「国内外の反対」は小泉首相が靖国神社を参拝する意思の強さを示すために使われた表現である。首相の靖国参拝に反対する意見が、日本国内と、国外にあるのは客観的事実なので「国内外」と記したものと思われ、首相の外交政策を批判するなど、政治的な見解・論評・批判は書かれていない。よって本判決が政治的だとは認められない。 以上。


by j6ngt | 2005-10-09 01:10


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